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地域の紹介

 世田谷区は人口831,224であり東京都の市区町村の中で最も人口が多い区です。総面積は58.08Kuで、23区の中では、大田区に続き2番目に広い面積となっています。
 世田谷教会は、世田谷区の池尻と三軒茶屋を中心として活動を展開しています。最寄り駅は東急田園都市線の池尻大橋駅で、徒歩5分の位置にあります。

池尻の由来

 むかし多聞小学校の東の山下で北沢川と烏山川が合流し沼沢地帯を形成し、蛇池とも龍池とも呼ばれていた。大橋を頂点とした人の字形をした長大な水溜りだ。下北沢村に字池ノ上があり隣村は池沢村だった。蛇池・龍池・辰池は細長い水溜りをいう。池尻の尻≠ヘ出口のことで、池や沼・湖が川に落ちるところをいう。湖尻や野尻・塩尻が知られている。目黒川の大橋の付近が狭くそのため西側に川水が溜まって大池になったようだ。しかしその狭隘部は崩れたか崩されたかしてなくなり、幕末の頃から徐々に干上がっていった。明治になって町が陸軍騎兵隊・砲兵隊・輜重隊等の戍衛地となり、玉川電車が開通すると次第に市街地化し、あちこち住宅が建ち始める頃の池の跡は蒟蒻状態で地面が緩く建築に難渋したという。だから池尻は大橋の西側だ。
右の写真は世田谷公園


三軒茶屋の由来

 もとは上馬の町域で(上馬を参照)、大山街道沿いに3軒の茶屋があったことからこの辺の辻を俗称としてよんでいた。
 昭和7年(1932)の世田谷区成立の際に上馬町から分離し三軒茶屋町と初めて正式な町名となった。その後町域を変更し昭和43年(1968)に現在の町名となった。
 特に三軒茶屋は、繁華街の渋谷から東急田園都市線で5分。人々がほっと一息つける場所です。駅前には、世田谷のランドマーク、キャロットタワー、周辺には下町情緒を残した街並みと、閑静な住宅地が広がり、様々な人々が行き交います。
 三軒茶屋の地名は、江戸時代に大山道の本道(今の世田谷通り)と近道(今の国道246)の分岐点に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があった事に由来します。当時は神奈川県丹沢の大山にある阿夫利神社へ雨乞いに行く大山詣が流行し、文化文政の頃には三軒茶屋という呼称が一般的になっていたそうです。
 また、「三軒茶屋の街を劇場にしよう」と世田谷アートタウンフェスティバル『三茶de大道芸』なるものが、地元商店街と世田谷文化生活情報センターが一体となって1997年に始まり、今では秋恒例の楽しいフェスティバルとして定着しています。
 右の写真は三軒茶屋駅前にそびえ立つ「キャロットタワー」
 26階には展望台があり、三軒茶屋周辺、六本木なども見渡せる。同じ階にFM世田谷のブースがあり、三軒茶屋の人気スポットとなっている。


世田谷区について

世田谷区の地形

 世田谷区は、武蔵野台地の南縁部に位置しており、区の北部および中央部はほぼ台地、区の南側境界付近は多摩川に沿って広がる氾濫低地となっている。北部および中央部の台地面は、区の西側から多摩川に流れ込む野川・仙川、砧公園〜等々力駅付近を南北に流れる谷沢川、区の東側境界付近で目黒川となる北部の小河川などによって刻まれ、大小の谷底低地が樹枝状に広がっている。なお谷沢川は多摩川への合流点付近で、都内では珍しい渓谷の景観(等々力渓谷)を見せている。


世田谷の由来

 瀬田に準ずるが、「せたかい」「せたかえ」ともいい、世田ヶ谷・世太ヶ谷・瀬田ヶ谷・瀬田茅・瀬田萱などに書いた。世田谷は「瀬田の谷地」をいい、「世田ヶ谷戸」を略したものだが、現在の世田谷区は荏原郡覚志(かがし)郷と多摩郡勢田郷をあわせた範囲で、世田ヶ谷の初見は鶴岡八幡宮文書にある「世田谷郷」だが、世田谷区世田谷は、世田ヶ谷が世田谷郷の汎称(地域名)となってからその中心地として呼ばれた政治的呼称だ。つまり世田谷区世田谷のところに世田ヶ谷戸があった訳でなく世田谷郷の世田谷を拝借した訳。中世の世田谷城も「世田谷郷を支配する意図を以て」命名されたもので、政治的呼称で呼ばれる以前の呼び名は判らない。同じような命名に足立区足立、目黒区目黒本町がある。地形名としての世田ヶ谷は、「瀬田」を参照されたい。


世田谷の概況

 昭和52年61町、平成21年現在45町。区役所は世田谷4丁目にある。姉妹・友好都市はウィニペグ市(カナダ)・ウィーン市ドゥブリング区(オーストリア)・バンバリー(オーストラリア)と群馬県川場町。美術館・文学館・図書館・資料館(代官屋敷に併設)は充実しており、地域資料も豊富、文化行政は23区中1、2争うほど。文化施設は五島美術館・静嘉堂文庫・大宅荘一文庫・駒沢オリンピック公園・砧公園・祖師谷公園・羽根木公園・次太夫堀公園・岡本民家園・馬事公苑・豪徳寺・九品仏などなど枚挙に暇なく、区内は高級住宅地が多く純粋に緑の住区で総合的に全国一の環境にある。風水害で鉄道各線が運休を余儀なくされる中、小田急は平常運転で時間の遅れもなかったのだ。小田急は世田谷の真ん中を走っている。


世田谷区の鳥・花・木

昭和43年6月1日東京100年を記念して制定された。
 ●鳥「オナガ」
 ●花「サギソウ」
 ●木「ケヤキ」

ボロ市

 世田谷とは切っても切れないこの市は400年もの伝統を誇り、毎年12月と翌年1月の15〜16日に開かれている。元々は千歳船橋駅近くの桜丘の菅刈社(稲荷森神社)で開かれていたものらしい。稲荷森は「稲荷社の森」の意で「とうかんもり」と読む(稲荷を「とうかん」と読む例は他にもあり、江戸時代中央区に稲荷堀があり「とうかんぼり」と読んだ)。昭和20年代まで鬱蒼とした傘いらずの森で、雨宿りに納涼に、大いに繁盛したお稲荷さんだった。天正六年(1578)北条氏政が世田谷新宿の楽市楽座に移し変えたのが今日のボロ市となった。昭和39年12月廃止にすることになったが、翌年1月再開して途切れることなく続いてている。


        掟
   一 市之日 一ヶ月
     一日 六日 十一日
     十六日 廿一日 廿六日
   一 押買 狼藉 堅令停止事
   一 国質 郷質 不可取之事
   一 喧嘩 口論 停止事
   一 諸役一切 不可有之事
     已上
     右為楽市定置所如件
     天正六戊寅  禄寿応穏
     九月廿九日 山角上野介
     世田谷 新宿


 六斎市(毎月1・6・11・16・21・26日の6日のみ開く固定的物売り場)だったが、江戸時代になると次第に廃れて、年二回夏と暮に開かれるに止まった。都市消費が当たり前になると、問屋に渡したほうが手っ取り早い換金手段という訳だ。となると問屋に卸せない古着などは納涼市・歳の市で捌くしかなく、ボロ市に形を変えて楽市は残った。ボロ市は現在さらに年々の広がりを見せ、世田谷区を象徴するものとなっている。


   襤褸市は曇りて雨の甲斐秩父(尾崎紅葉)
   ボロ市の武蔵野ぶりや杜の鵯(草間時彦)


 西欧化を押し進めた明治の新政府は、明治5年に太陽暦の採用を決めた。旧暦では西洋との間に1ヶ月も食い違いができ、困ることが多いとの建前で、明治5年12月3日を一足飛びに明治6年1月1日とした。だからこの5年の12月は2日しかない。政府、大隈重信は役人に対する12月分の給与をカットした。太陽暦の採用は財源難の政府の窮余の一策という背に腹は代えられない生きるか死ぬかという剣ヶ峰で採用されたのだ。だがしかし世田谷付近の住民も困惑した。12月2日だけになってしまったので伝統の年の市を開くことがで。『ボロ市の歴史』(世田谷区立郷土資料館)によると、臨時に11月25日に繰り上げて開かれたというが、さっぱり商売にならなかったらしい。


●楽市楽座

 織田信長が城下町の安土で実施した産業振興策。現代風にいえば一切の規制を撤廃して、商工業への新規参入を許す画期的な自由化政策である。税金は一切免除で、簡単に商売ができるのだから、楽の名に相応しい。自然に各地から人や物産が集中し、城下町が繁盛する。しかし新しい悪党の侵入を許すことでもある。全体に正義感に薄れ、商道徳は低下していき精神主義から物質主義に転化する。拝金主義が罷り通り、弱肉強食の世の中となる。


●ボロ(襤褸)

 「ボロ」とは、「ぼろぼろ」の擬態語から出たもので、破れた古い布、ちぎれた布、またそれらを継ぎ接ぎした布のことをいう。「襤褸」の漢字を当てるが、この熟語の読みは「らんる」だ。
 「襤」 衣+監。音符の監は、濫に通じ、「みだれる」の意味から「ぼろ」の意味を表す。
 「褸」 衣+婁。音符の婁は、繋がるの意味。衣服が破れて繋がっている「ぼろ」の意味を表す。


玉川通り(矢倉沢往還・大山道・厚木街道・国道246号線・ニーヨンロク)

 家康が矢倉沢(南足柄市)に関所を設けて東海道の脇街道としたので「矢倉沢往還」と呼ばれたが大山信仰が盛んとなって阿夫利神社にお参りする参道となり「大山道」と呼ばれるようになった。本来は東海道は大名が、中原街道は商人・農民が、矢倉沢往還は幕府役人が通る道として使い分けた。
 別に規則があった訳ではない。お互い煩わしさを避ける当時の知恵だ。渋谷から赤坂までは「青山通り」と分けて呼ぶが、全線を通して「厚木街道」とも呼び、国道246号線であるところから「ニーヨンロク」とも俗称する。部分的には「鎌倉道」「二子道」でもある。道玄坂で甲州中出道(滝坂道→一部淡島通り)を分け、三軒茶屋で津久井道(世田谷通り)を分かつ。新町から二子橋までの通りは新道で、旧道は新町から北側に大きくカーブして玉川台で慈眼寺道と行善寺道とに分かれて共に多摩川の「二子の渡し」に至った。東名自動車道はほぼこの東海道脇往還に沿って建設されたものである。国道1号線・国道246号線の大渋滞の解消を目指したものだが、その結果国道は忘れ去られ、今でも相当の利用量はあるものの沿線町村の寂れようは嘘のようだ。