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礼拝説教

2月20日 礼拝説教

訓読 「牧会者の道」
人間が堕落しなかったなら、救い主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救い主が必要で、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の結果だということを知らなければなりません。祈祷をなぜしなければならないのですか? 縦的な心情圏に対して、自分が横的に九十角度の位置に立たなければなりません。これを誤ってはいけません。そこに立って、縦的な刺激を受けることにより、そしてその衝撃が大きければ大きいほど、その基準によって自分の球形が展開するのです。こうなれば、こんな球形になるのです。一〇〇パーセント授け受けする円形が展開するのです。ですから精誠をささげなければならないのです。これが行ったり来たりしてはいけません。そういう立場でびしっと祈祷するのです。「私がお父様にどのように侍りましたか? 私が父母に侍る場合、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか?」と言うのです。それは直ちに分かるのです。自分の涙が、どこまで流れ広がるのかということです。これが公式なのです。堕落した人間が天の父母に侍るのに涙がないなら悔い改めなければなりません。清算しないとその環境が再創造されません。失ってしまったから。何のことか分かりますか?
 国を思うとき涙があふれ、世界を思うとき痛哭が起こりますか? 問題はそこにあるのです。天がそうしているのに、主体がそうしているのに、横的基準がその同位圏に立たないといけないでしょう。同参圏に立たないといけないでしょう。相続圏に立たないといけないでしょう。一体にならないと不可能なのです。 自信をもって責任者になるのではありません。分かりますか? 自信はないのです。先生も自分に自信があると思ったことはないのです。自信よりもまず神様が好きで、神様が探ねていくその人を好きになるべきことを知ったので、ぱっと仰ぎ見て、その心情をどうやって抱いて出ていくか、それが問題だったのです。その心情さえ通じるようになればうまくいかないことはないのです。好きな人を良くしてあげられるし、悲しんでいる人を慰労できる心がなければならないことを知らなければなりません。

題目 「祈祷しましょう」
祈祷と言うものは神様と私たちが直接出会うことができないので、必要となりました。本来は必要ではないのです。直接出会う、会話することができたのです。しかし人間の堕落によって神様と人間の関係が切れました。その関係を取り戻すための中保者がメシヤです。
堕落していても人間には本心、両親というものがあるので、それを通じて神様に通じることができるのです。それが祈祷です。統一教会に来て一番驚いたことは、神様と人間との関係です。イエス様は神様を父と呼んだので、十字架にかかりました。堕落人間は神様の前に直接に出ることができないのに、統一教会では神様を父と呼んでいます。
原理を学ぶことにより、堕落した私たちは、堕落したことを悟り、祈ることの必要性を感じるのです。本当に自分は堕落人間かということをもう一度よく見つめていかなければなりません。それを心から悟らなければ、救いの道がありません。

今、礼拝を捧げることは神様に直接通じることのできる素晴らしい場なのです。天の息子娘になる道を歩んでいるのです。この教会こそ神様が直接主管する素晴らしい教会なのです。ここに来てずっと聖書を読んでいますが、特にゲッセマネの園の部分が心に残っています。イエス様が自分の最後のことがわかってきていて、焦りと悲しみに浸る思いだったのです。3弟子達に起きて祈りなさいと伝えました。「私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここで待っていて起きて祈りなさい」。イエス様や弟子達にとって、ゲッセマネの園は特別なところではなく、日頃よく祈ったところでした。汗が血の滴りとなって落ちました。私は弟子達が疲れて寝ていたと思っていました。しかし3弟子達は悲しみの果てに寝ていたと記されています。その悲しみとはイエス様の思いとは違い、自分たちの将来のことを心配する悲しみだったのです。

実は以前、相対者のお父さんが私と相対者をカトリック教会に連れて行きました。2人を統一教会からやめさせるためでした。私は、その教会の牧師に、私は高一から統一教会に来ています。その前には小学生の頃からキリスト教に言っていました。牧師さんは原理を読んだことがありますか、統一教会の人と話したことがありますかと聞いたら、ないと答えました。それではなぜ反対するのかと言いました。私は聖書の内容を覚えるぐらい何度も読みました。私は統一教会に来て、その教えのレベルが違ったのです。牧師さんが知っているのはマスコミの悪い記事だけではないですかと言いました。お父さんは私たち2人を統一教会から救おうと思ってカトリック教会に連れてきたのに、その牧師が私に説得され、答えることができないのを見て驚いていました。聖書ヨハネ福音書3章16節を読んで下さいと言いました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」 神様が誰を愛していますか、この世の全ての人と書いてあります。その中に統一教会の人は入らないのですか?と質問しました。すると牧師は「入ります」と答えました。あなたの信じるイエス様は馬小屋で生まれました。立派な人には見えなかった。ヘロデ王は2才以下の男の子を全て殺しました。そのような犠牲の上に、イエス様は生まれました。あなたはイエス様を信じているように、私も文鮮明先生をメシヤと信じています。私も聖書を信じています。この聖書に「文鮮明先生」がメシヤではないと書いてあるのですか。もし統一原理を否定するのであれば、まず原理を読みなさいと言いました。そして私がお祈りをしますと行って牧師の前で祈りました。

皆さん、私たちの信じているこの道がどれほど素晴らしいでしょうか。この世の人がどう評価するかが問題ではありません。出会った方がメシヤであれば、私の人生、家庭が変わるのであれば、間違いないのです。この道が日本を救うのです。
昨日、久保木会長の映像を見ました。昔、まだ食口が少なかったのに、この国を動かすという基準は本当に素晴らしいのです。廃品回収をする青年達がそのようなことを言っていたのです。世田谷の食口は、今目を覚まして日本をリードしていかなければなりません。統一教会は礼拝のためにくるのではない。この日本の未来をどのようにリードするかが問題です。自分のためではないのです。この世田谷教会がいかに日本をリードする教会になるのか。ゲッセマネの園の祈りを思いながら、神様がお父様が私に、日本に願う使命をかみしめながら歩みましょう。